【希望の二つの顔】(はるちは・閣下)
―――もう、明かりも消えたスタジオの前を通りかかった千早が、その姿をみかけたのは、ほんの偶然のことだった。
いくつもの街灯の、冷たいナトリウム灯に照らされた駐車場。黒いアスファルト。そこにひとりの少女がいて、楽しげなステップを踏んでいる。
楽しげ…… そうなのだろう。いくつもの方向にあわい影が伸びて、彼女が腕を伸ばし、そしてステップを踏むたび、コスモスの花のように揺れた。見覚えのある振り付けだった。
「春香?」
確認をすると、スタジオの鍵がボックスに戻されている。すでにダンススタジオは閉じてしまっているからあそこにいるのだな、と千早は確認した。けれど、それにしたって、もうとっくに帰るべき時間だろうに。千早が首をかしげかけたとき、事務所の明かりを消灯していた小鳥が、千早の姿に気付く。
「あ、千早ちゃん。遅かったのね。もう、電気を消しちゃうから、早く帰ったほうがいいわよ」
「はい…… あの、春香は?」
「春香ちゃんね、今日、うっかり終電を逃しちゃったらしいの」
彼女は苦笑する。ようやく千早にも納得がいった。
春香は、765プロの誰よりも遠くから、毎日、時間をかけて通勤をしてきている。まだ終電というにはあまりに早い時間だが、おそらく、今からでたら逆に中途半端な場所で電車がなくなってしまうと判断をしたのだろう。ようするに今日は帰りをあきらめた、ということだ。
「大変なんですね……」
「ほんとにね。今日はあたらしい衣装のことでスタイリストさんといろいろ話していたから、うっかり、時間を間違えちゃったみたい。プロデューサーさんもうっかりしてるんだから」
あんな歳の女の子を、こんな場所に泊まらせるなんて! 小鳥の怒り方は、なんだか、まったく迫力が無くて、千早は思わず苦笑をもらした。
「じゃあ、今日の春香は事務所の仮眠室に泊まりですか」
「そうよ。だから、全部は消灯しないでいくから。でも千早ちゃんはちゃんと帰ってね。タクシーでも帰れる距離なんだから」
「はい」
「じゃあ、お先にね。気をつけて」
「はい。お疲れ様でした」
彼女が最後の灯りを消して、そして、事務所を出て行く。千早はちいさくため息をついた。……春香とは違う意味で、自分だって、あんまり家に帰り甲斐があるというわけでもないのだけれど。真っ暗で誰も居ない家に戻るのと、なじみのある事務所の仮眠室で眠るのでは、居心地はどっこいどっこいというところだ。
まあ、考えていてもしかたがない。明日のために早く帰ろう……
そう思いかけたときだった。
何気なく、窓の外を見る。千早は眼を瞬いた。春香の姿が、ない?
カタン、と音がした。千早は降りかえる。階段を誰かが登ってきていた。やわらかい靴底の、ローファーの足音がした。
「春香?」
ドアは開かない。彼女らしき影が、閉じたシェードのむこうを通り過ぎる。見慣れたシルエット。
何を思ったというわけでもなかった。単に、帰りがけに、声をかけていこうと思っただけだ。
少し、ほんの少しだけ、疑問に思わなかったわけでは、なかったのだけれど。
……ほんの少し前まで、夜のアスファルトの上でステップを踏んでいた春香。
なぜ彼女が、こんなすぐに事務所のところまで来られたのかということを、不思議とおもわなかったわけではないのだけれど。
「春香、いるの」
千早は、ドアを開けた。そこは仮眠室だ。古ぼけたソファベットと、毛布が一枚。誰かが置いていった化粧ミラー。そして、おそらくはプレゼントで置かれている、これだけはレトロで優雅な様子をしたティファニー・ランプがひとつ。
春香はソファの上に腰掛けていた。ゆっくりと顔を上げる。そして微笑む。なぜだか、胸の中で、奇妙な様子で鼓動が跳ねた。
コトリ。
「……千早。まだ、いたのね」
「私はレッスンをしていたの。まだ、家に帰れる時間だわ」
「そう」
「今日は終電を逃したって」
「ええ。でも、たまにはいいわ。ゆっくりと読書できるもの」
違和感。
「春香って、そんなに本が好きだったの?」
「どうかしらね。けれど、持ち歩いてはいるわ。本は、いろいろな世界へ、視界を開いてくれるもの」
違和感、違和感。
背中がかすかにちりつくような違和感に、千早は迷った。このまま帰っていいのか、それとも、これは何か見過ごしてはいけないことなのか。人馴れをしない自分らしい怯懦さだと千早は思った。やがて、気持ちを決めると、部屋の中へと一歩を踏み込む。
「ねえ春香、ちょっと、話をしていっていい?」
「……」
どうして? や、めずらしいね、などという返事が帰ってくるのだろうと、思っていた。
だが、彼女は何も言わずに、しずかに本を閉じる。そして千早を見上げると、「ここに座るといいわ」と言った。
「……」
「めずらしいことね、あなたが人と『会話』をしたがるなんて。面白いこと」
「……」
茶色がかかったひとみに、ティファニーランプの、七色の光があたる……
色ガラスを通り抜けた七彩の光を受けて、ふたつのひとみは、ちいさな万華鏡のようだ。吸い込まれそうになる。硬いはずのソファベットに身体がうずまるような錯覚をおぼえるほど、千早は、そのひとみに、違和感という以上の何かを憶えた。ふと、髪に、見慣れない髪飾りをつけていると気付く。普段のシンプルなリボンではなく、細かな細工のレースを使った髪飾り。黒いリボンと白いヴェール。
『はるか』は、ゆったりと微笑んだ。どこか微酔のなかにいるような、奇妙にやわらかい微笑みだった。
「そんな顔をしないで。わたしも、そう、埒も無い考えにふけっているのに飽きたところだから。どうせ、あなたのことだから、自分から話すのは苦手でしょう」
春香は、手にした古びた本の表紙を、ゆっくりと手で撫でた。図書館の本だった。ラベルが日焼けをして、変色していた。
「この本にね、あなたに良く似た女の子の話が載っていたの。『ガラスの心臓を持った三人の姉妹』というお話よ」
舌がもつれて、ぎこちない。千早は掠れた声で問いかける。
「どんな話なの……」
「あるところにね、三人のお姫様がいるのよ。三人は、そろってガラスで出来た心臓を持っていた」
ガラスで出来た心臓は、ゆらすとそれは美しい音をたてるけれど、強く押せば簡単に壊れてしまう。春香は、すこし歌うような口調で、そんな物語を語った。
「一番上のお姫様は、ある日、外を見ようと塔の窓に身体を押し付けたとき、心臓が割れて、死んでしまうの。二番目のお姫様は、熱いコーヒーを飲んだときに、ガラスの心臓にヒビを入れてしまうのよ。そしてそれっきり。無傷の心臓をもって残ったのは、三番目のお姫様だけだった」
息苦しい。千早は半ば無意識に、胸元をぎゅっと掴んだ。
「そのあと、どうなるの……」
「そのあと? 対して興味深くも無いわね。末の姫を心配した王様は、ガラス職人としての腕を持ち、さらに、王であるという婿を探すの。とある青年が苦難の末にその条件を充たしてお姫様を娶り、幸せになる」
めでたし、めでたし。
春香は、皮肉というわけでもない口調で、そうやって話を締めくくった。
「ガラスの心臓を持った人間は、ときおりこの世の中に生まれてくる。とても美しい音をかなでるけれど、その心臓はとても脆く、壊れやすい。そんなあたりがあなたに似ているわ、千早」
「……」
「19世紀の童話というのは面白いわ。アンデルセンは適わぬ恋の絶望から、哀れな人魚姫の物語、道端で凍え死ぬ少女の悲惨な物語を、詩的な言葉で彩った。『幸福な王子』を書いたオスカー・ワイルドは、同性愛の罪を負ったせいで悲惨な生涯を遂げたの…… でも、絵本を子どもに読み聞かせる親の大半は、そんなことなど知らないでしょうね」
希望の二つの顔について、考えていたの。
春香は、そう、澄んだ声で言った。
「希望にはふたつ、顔があると思うの…… どう思うかしら」
「知らないわ……」
ふいに、千早は思い出した。
アスファルトのステージで、ひとりぼっちのステップを踏んでいた『春香』のことを。
遠くて見えなかった。けれど、真剣極まりない顔をしていただろう。彼女は努力家だ。ただ目的の水準を果たすためなら必要な努力をする、という、非常にシンプルな意味においての努力家。
何故だろう。あのときステップを踏んでいた春香と、今目の前にいる『はるか』が、あまりに違って感じられる。彼女は嫣然と微笑む。かすかに髪飾りが揺れ、サテンのリボンがモアレ模様をゆらす。
「これはたとえ話よ。たとえば千早、あなたは、地球で最後のひとりになったなら、きっと、絶望から死を選ぶでしょう」
「……」
息を呑む。だが、彼女は、童話の話を語るのと同じく口調で、楽しげに語った。
「けれどあなたは、無為に死にはしないわ。この世の最後の人間として、歌って、歌って、歌って…… 喉がつぶれて声が出なくなり、疲れきって地に伏せて、そのまま動かなくなる。それが貴女の『生き様』だもの。……どう思うかしら?」
千早の脳裏で、一瞬だけ、彼女の語る風景が思い浮かべられた。
そこは、無人の世界。街には人影はなく、雑踏に大音量で割れた音楽が流れることもない。世界中の全てから歌が消え、波はただ無為に浜辺に打ち寄せ、風は梢に鳴るだけの世界。そんな、静かな終末。
たったひとりで取り残されたなら、自分はどうするか。誰も居なくなった世界で、最後の1人として。どうするだろう?
「そう、ね」
さっきまで、胸につかえているようだった感覚が、いつの間にか溶けて、なくなっていた。
「そうすると思う、私だったら」
「誰も聞いていないわ。だれもいないんだもの。それでも?」
「……哀しいときは、歌うことしか、たぶんできないもの。知っている歌をすべて歌って、歌えなくなったら、きっと、死んでしまうと思う」
「まるで、トゥオネラの白鳥ね」
うつくしい終末だわ。
『はるか』は、そういって、眼を細めた。
「それが、絶望のもう一つの顔よ。千早、貴女はきっと、絶望の二つの顔のうち、ひとつのことしか考えたことがないでしょうけれど」
「どういう意味なの?」
「死に至る病とは絶望である、って言った人間がいたそうね。でも、『死に至る病』を得られず、死すべき時を得られない人間がどれほど不幸かは、それよりも千年も前にすでに考えられていたことよ」
栗色の髪の上で、繊細なレースが揺れ、七彩の光が踊った。
「絶望は、そうね、芥子のようなもの。諦めと絶望は生きることの痛みを取り除き、怒りと焦燥は奔馬へと加えられる鞭の一打となる」
「……ごめんなさい、よく、意味がわからない」
「逆を想像してみたらいいんじゃないかしら」
『はるか』は、胸の上に、そっと手を当てた。
「『わたし』だったら、どう? 誰も居ない世界の終末で、どうするのか。何をするのか。想像してごらんなさい」
「春香が……」
「ええ、そう。誰も居ないのよ。あなたも、仲間たちも、もちろん、『わたし』の最愛のあの男だって」
誰も居ない街並み。誰も居ない海。アスファルトに影が揺れることもなく、星が流れても願いをかけるものもいない。
そんな世界。
「想像も出来ない……」
それが、素直な気持ちだった。
ひとりぼっちの春香。たったひとりで残されてしまった春香。いつもの笑顔が思い浮かび、そして、消えた。彼女の姿は、そんな世界へとはめ込もうとしても、コラージュのように不自然で、すぐにイメージが崩れて行ってしまう。
『はるか』は微笑んだ。想像していたとおりの答えだったのだろう。
「そうね、私だったら、こうじゃないかと思うわ。『わたし』はきっと、生き残りを探す旅にでるの。そして、しだいに人のいる痕跡も朽ち果てていく世界で、老婆になるまで彷徨い続けて、残りの生涯を空しくするのよ」
想像をしてみた。それは、身震いがするほど、寒々しい空想だった。
「……そんな、哀しい……」
「他の想像だって同じだわ。たったひとり、はるか未来の戦禍のさなかに取り残されて、ありとあらゆる重圧を負わされる『わたし』。時の輪廻のなかで未来を見失って、永遠の『今』のなかを彷徨い続ける『わたし』……」
きっと『わたし』は、希望を棄てないでしょうね。『はるか』は静かに言った。
「それが、『希望』のもうひとつの顔だと思うの。分かるかしら」
「誰かが、生きていると思うから、そうすることになってしまうの……」
「『わたし』は、誰かの喜びがとても好きなの。けれど、それは分かち合う誰かがいなければ得られない喜び。自分の意思だけで手に入れることは、どうしてもできない幸福だわ」
自分では、自分を幸福にできない、ということの意味がわかるかしら。
七彩のひかりを映したひとみが、千早の表情もまた、映し出す。
「誰かによろこんでもらいたい、誰かに笑ってもらいたい、それが、『わたし』の幸せ。よろこんでくれる、笑ってくれる、幸福になってくれる『誰か』がいないと、どうしても得られない幸せなの」
「それは…… それは、みんながそうなんじゃないの?」
奇妙な息苦しさに、問いかける口調が、急き込むようなものとなる。
「私だって、歌が好きだけれど、それは、聞いてくれる誰かのためかもしれないじゃない」
「それは、あなたの全てとはいえないわ。だってあなたの中には、けっしてあなたを見捨てない、大切な観客がいるもの」
「わたしを、見捨てない……?」
微笑む。その、不可思議な微笑み。
「『あなた自身』よ。千早、あなたは、自分の幸福のために、自分の心地よさのために、歌うことができる。たったひとりになってしまっても、あなたの歌は、きっとあなたを見捨てない」
―――一瞬、千早には、何がなんだか分からなくなってしまう。
目の前に腰掛けて、微笑みを浮かべ、こちらを見つめている少女。愛らしい顔立ち。単純なことで喜んだり、哀しんだり。その、単純で凡庸な幸福を羨んだことが幾度あるか知れない。私だって、ほんとうは春香みたいに笑いたいのに、と。
「……そんな言い方、ずるい」
彼女は答えない。千早は、自分の喋り方が、まるで、駄々をこねる子どものようだとどこかで思う。
「私よりも、春香のほうが、ずっと幸せなのに。みんなに愛されて、みんなの前で歌うのが幸せで、それで、アイドルになりたくて…… そっちのほうが、ずっといいに、決まってるのに」
「そうね」
彼女は、微笑んだまま、眼を伏せた。
「そうかもしれないわね」
これは誰なんだろう? 千早は、頭が混乱するのを感じる。
たしかに春香だ。天海春香。私の仲間で、そして、友だち。シンプルで、一番平凡なかたちでの幸せというものを知っている、なりたくてもなれない、同世代の女の子である彼女。
そっと手が伸ばされて、千早の頬をなでた。なぜだかその手は、絹のようにすべらかで、そしてやさしいにもかかわらず、ひどく冷たいものだった。
「おかしな話をして、混乱させてしまったかもしれないわね。……あなたはもう帰りなさい。今日はきっと、夢を見ずに眠れるわ」
千早は、思わず、問いかけた。
「あなたは誰?」
『はるか』は、微笑んだ。
「おかしなことを言うのね。……私は、『わたし』よ。そうでしょう?」
『はるか』がそう言ったにもかかわらず、千早はその日、夢を見た。
それは誰も居なくなった街のはずれ、消えかけた街灯の下で、ステップを踏む春香の夢だった。彼女は、もう、この世界のどこにもそのダンスを見てくれる人がいないにもかかわらず、熱心に、そして真剣に、ひとりきりのダンスレッスンを続けているのだった。
―――そしてそれは、奇妙にこわい夢だった。
翌日、朝一番に千早が事務所を訪れると、春香が妙にしょぼしょぼした目で、コーヒーを啜っていた。
通りすがり様に、小鳥が、「春香ちゃん、寝不足ですって」と苦笑交じりに言う。
「今日の仕事は露出がないのばっかりだけど、管理がなってないってプロデューサーさんが社長に怒られてたわ」
「春香は、なんて?」
「自分がうっかりしてたせいだから、プロデューサーさんのせいじゃないですって」
春香ちゃんらしいけどね。ちょっとため息をついて見せて、そして、彼女は芸能関係のニュースのファイルを運んでいく。千早はしばらくためらってから、春香のほうへと行った。
なんだか目がはれぼったい。なんだか髪が乱れている。眼を上げた春香は、「あ、千早ちゃん!」と声を上げた。
「おはよう、春香。大丈夫?」
「んー、あはは、軽くねぶそく……」
苦笑しながら、春香は、跳ねた髪をしきりに気にしていた。
「やっぱし、事務所の仮眠室は無理があるよねー。次はホテルとか泊まろうかなあ」
「……ずっと、本を読んでいたからじゃないの?」
春香は、眼を上げる。眼を丸くしていた。それから、ぷっと吹きだす。可笑しそうに笑い出した。
「やだあ、本なんて読んでないよ。電車の中の暇つぶしに借りてるけど、昨日はなかなか眠れないから、ダンスのおさらいずっとしてたもん」
心配かけてごめんねー。春香の口調はいかにも軽い。千早は変に、胸が詰まるような気分になる。
「ブラシ、借りてくる」
「へ? なんで?」
「髪、跳ねてる。なおしてあげるから、春香は朝ごはん食べてて」
千早は、途中で買ってきたマフィンとドーナツの紙袋を、ソファの上に置く。そして、化粧ボックスからブラシとヘアウォーターのスプレーを取り出す。春香が眼を丸くして後ろから見ているのを感じた。やがて、なんだか照れをごまかすように、跳ねる声が聞こえてくる。
「なんか、今日の千早ちゃん、すごく優しい! 親切っ!」
「……そういう気分のときもあるもの」
「嬉しいなー。もしかして私、愛されてる? えへへ……」
あれは誰だったんだろう? 千早はふと、そんなことを考えて、そして、すぐに頭から振り払った。考えても無駄な気がしたし、それよりもなお、考えるのが怖いような気がした。
後ろから髪をほどいてやる。すこし癖のある髪がブラシにひっかかる。ふと、春香が手を上げて、いたずらっぽい風に千早の指をちょっと掴む。「やめてよ」と千早はすねた口調で言う。
「なんか、寝不足でちょっと得したな。千早ちゃんの愛を感じられたもんね」
くすくすと無邪気に笑う春香の手は、すぐに、千早の手を離していった。それでもその感覚は、しばらく、そこに残っていた。
あたたかくて、血の通った、人間らしい感触だった。
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